次の一冊はこれ!

「次の一冊はこれ!」は、本好きなあなたにピッタリのブログです。本を読む以外に能がない哲学畑のおじさんが、話題の新刊から隠れた名著まで、さまざまな本の魅力をぎゅっと詰め込んだ紹介文をお届けします。「次に何を読もう?」と迷ったとき、このブログが新しい一冊との出会いをサポートします。

『言葉と物』ミシェル・フーコー

フーコーの『言葉と物』はあまりにも有名かつ多くの研究者が精力的に読解してきた本なので、記事にするか迷いました。しかしブログだからこその簡潔な文章によって少しでも読者の助けになれば...と思い、あまりにも大胆であることを認識しつつもいつも通りの短さでお届けします。

本書は、副題「人文科学の考古学」が示す通り、「知」の歴史を探究する中で、私たちが世界をどう認識し、記述してきたかを批判的に考察します。フランス構造主義を代表する作品の一つとして広く知られ、オリジナルは1966年ですが、現在でも哲学、社会科学、人文科学といった分野に大きな影響を及ぼしています。

冒頭でフーコーは、ディエゴ・ベラスケスの絵画『ラス・メニーナス』を取り上げています(本記事冒頭の画像です)。この絵を通じて、見ることと見られること、表象と実在の複雑な関係を提示し、知の枠組みがどのように私たちの認識を規定しているかを示します。この方法論的な序章は、全編を通じて読者に深い思索を促す役割を果たしているように感じます。

フーコーの議論の中心には「エピステーメー」という概念があります。これは特定の時代や文化において知識を成立させる枠組み、つまり人々が何を「知」として認識できるかを規定する暗黙のルールや構造のことです。フーコーによれば、エピステーメーは時代によって大きく変化しますが、これらの変化は直線的な進歩ではなく、むしろ断続的で予測不能なものです。

『言葉と物』では、西洋思想の歴史を大きく3つの時代に分けて論じています。まず、「ルネサンス期」には、万物が相互に類似性や象徴によって結びついていると考えられていました。この時代では知識は記号の解読のような形で成立していました。次に、「古典主義時代」(17〜18世紀)に入ると、秩序と分類が知の基盤となります。自然や社会がどのように体系化されるかを分析することが重要視され、百科事典的な分類が進みます。そして、「近代」(19世紀以降)になると、人間そのものが知の探究の対象となり、歴史的条件や主体性の問題が前面に出るようになる、とフーコーは論じます。

フーコーは、この歴史的な変遷を通じて、「人間」という概念が歴史的にいかに作られてきたかを明らかにします。特に重要なのは、近代の人間科学(心理学、社会学、経済学など)が、個人や集団の行動を理解するためにどのような枠組みを採用してきたかという点です。フーコーは、これらの学問が中立的な探究ではなく、むしろ権力や社会的規範と結びついていると論じました。

本書の最後でフーコーは、「人間」という概念そのものが、近代の特定のエピステーメーに依存する一時的な構築物に過ぎないと述べます。砂浜に書かれた文字が波によって消えるように、「人間」という主体も未来のエピステーメーでは消え去るかもしれない、と彼は示唆しました。この挑発的な結論は、哲学のみならず、人文学や社会科学全般に対する批判的再考を促すものでした。

拙文はフーコーをあまりにも単純化していますが、20世紀思想史の中でも特異点的な存在であるフーコーの卓越した知性を読み解く上で少しでも参考になれば幸いです。頭から理解しようとすると挫折すること必至だと思いますが、フーコーの文章の独特な詩的美しさを楽しむつもりでページをめくってみてはいかがでしょうか。

『Rumors』Mladen Dolar

本書は、噂という現象を哲学的に探求した一冊です。トピックは非常に興味深いのですが、参照されている具体例(ソクラテスシェイクスピア、ルソーなど)や分析のフレームワーク(ロゴスとかエピステーメーとかハイデガーとか...)等が全体的に西洋中心主義的であると言わざるを得ません。また、議論そのものが抽象的であり、ところどころ興味深い指摘があるものの具体的に進まないため、かゆいところに手が届かないという印象です。以下にいくつかの論点を紹介します。

噂の特性とその力

噂は起源が不明であるにも関わらず、特定の説得力とスピードを伴って一般に流布してしまいます。ゆえに、悪い噂の対象となった人はその真偽に関わらず始めから防衛を迫られる立場であり、噂がでっち上げだったとしても、それが嘘だという証拠を求められます。噂自体は根拠なく広がるにも関わらず、それを退けるためには根拠が必要になってしまうのです。このアンバランスな関係は非常に強力で、ソクラテスが死刑判決を受け、ルソーがフランスを追放された背景にも噂が大きく関わっています。このような例から、著者は「噂はときとして神聖に近い影響力を持つ」と論じています。

社会的繋がりとしての噂

しかし噂は単なるネガティブな現象ではなく、社会的絆を形成する役割も果たすと著者は指摘します。興味深いのは、噂がマイノリティにとって民主主義的な手段であった可能性です。著者はこの点についていくつかの参考文献を挙げるに留まっていますが、例えば植民地の拡大において現地語による噂(非公式な情報の流通)は支配者に悟られずに情報を共有する手段だったようです。ここはとても重要な部分に思われるのでぜひ掘り下げてほしかったのですが、本書は短いこともあり、著者は文献ベースの理論的な思索にほとんどのページを割いています。

啓蒙主義と噂の拡大

もうひとつ興味深い指摘は、噂が啓蒙主義の裏側の効果だったということです。啓蒙主義の進出により識字率が向上すると同時に、印刷技術の進歩によって情報の流通が加速しました。その結果、噂もまた広範囲に拡散されるようになったと著者は述べています。事実、1820年代のパリでは、既にフェイクニュースが社会問題として認識されていたようです。

現代においては、インターネットとSNSの登場により、噂の影響力はさらに拡大しました。情報が即座に共有可能になったことで、知識の民主化が進む一方、噂やフェイクニュースが社会的な混乱を引き起こす媒体ともなっています。著者の議論は抽象的なのでここでは丁寧に繰り返しませんが、簡単に言うと噂的なものとは理論的思考とか啓蒙主義的理性の裏側に常に存在してしまうもののようです。

 

本書は「噂」について考える上で比較的読みやすい入門書と言ってもいいかもしれません。英語ですがページ数が少なく(キンドルで読んでいるので具体的なページ数はわかりませんが...)、平易な文章で書かれているため、英語中級者であれば読めるのではないかと思います。冒頭で述べたように西洋中心主義的な内容であるため、本格的にこの議論に取り組むためにはもっと脱西洋的な視点が必要だとも思いますが、ところどころとてもおもしろい指摘があるので一読の価値あり、という感じです。下記サイトで一部分が読めるので、興味のある方はぜひ。

www.e-flux.com

『権力の空間/空間の権力』山本理顕

前回アーレント『人間の条件』を紹介する過程で山本理顕の『権力の空間/空間の権力』に軽く触れたので、今日はそちらを紹介します。本書は、建築と社会構造の関係を深く掘り下げた著作であり、アーレントの『人間の条件』が重要な理論的背景になっています。本書では、空間が単なる物理的なものではなく、社会の権力構造を形成し、維持する媒介として機能していることを論じています。特にアーレントによる「権力とは行為を通じて共有されるもの」という考え方を参照し、空間がいかにして人々の行動や共同体の形成に影響を及ぼすかを解明します。

山本は、アーレントが提示した公共性と私的領域の分離や、人々の協働が権力の源泉となるという議論を引きつつ、建築がその公共性をいかに具現化するかに注目しています。建築や都市空間が個々人を孤立させるのではなく、共同体を形成する場として設計されるべきだという主張は、アーレントの考える「公共空間」と共鳴しています。山本は、現代社会における空間の多くが権威的・抑圧的な力として機能している一方で、本来空間が持つべき人々をつなぎ、共同の行為を可能にする可能性を取り戻すべきだと説きます。

本書ではまた、アーレントが批判した「労働中心主義」や「道具的合理性」が空間設計にどのように影響を及ぼしているかも考察しています。山本は、経済効率や政治的管理を優先する現代の建築や都市計画が、結果として人々の主体性を奪い、空間を権力の行使の道具へと変えていると批判します。このような分析を通じて、彼はアーレントの批判的視座を建築の領域に適用し、空間がどのようにして無意識のうちに人々を従属させるのかを浮き彫りにします。

一方で、山本は建築の解放的な可能性も強調しています。アーレントが説いた「行為の自由」を引き合いに出しながら、空間を通じて人々が新しい関係性を築き、創造的な共同体を形成するための方法を模索します。例えば、都市空間の再設計を通じて、中央集権的な支配構造ではなく分散的なネットワーク型の共同体を育む可能性を提示しています。

こうした議論は、建築や都市計画の分野に限らず、社会学政治学、哲学に関心のある読者にとっても示唆に富む内容ではないでしょうか。本書には著者の長年の経験が凝縮されており、建築が単なる物理的な空間以上の役割を果たし得ることを示す刺激的な一冊となっています。

『人間の条件』ハンナ・アーレント

『人間の条件』、とんでもないタイトルですね。そんなものはない、と怒られそうな気もしますが、この本は政治哲学の本です。「もしも人間が◯◯ならば、政治は◯◯であるべきだよね」といった内容だと思っていただければ大体合ってると思います。1958年に発表されたアーレントの代表作であり、政治哲学や社会理論の領域において重要なテキストとされています。この著本では、現代社会における人間の活動を新たに理解し、労働、仕事、活動という三つの基本的な人間の条件を明らかにしようと試みます。アーレントは、これらの活動がいかに人間の存在を形成し、また現代社会においてどのように変質しているかを論じています。

三つの基本的活動

アーレントは、人間の活動を以下の三つに分類します。

  1. 労働(Labor)
    労働は、生物的な生命を維持するために必要な活動を指します。食べ物の生産や身体の維持といった、生命の循環に直結する反復的な行為がこれに含まれます。労働は一時的で消費されるものであり、結果として永続的な価値を持たないとされます。

  2. 仕事(Work)
    仕事は、人工的な世界を構築する活動であり、道具や建築物、文化的成果などの永続的な物を生み出します。労働と異なり、仕事は自然の摂理を超えて人間の独自性を反映するものであり、文化や文明の基盤を築く役割を果たします。

  3. 活動(Action)
    活動は、人間同士の間で言葉や行為を通じて行われる政治的な営みを指します。活動は人間の自由と独自性を最もよく表現するものであり、新しい始まりをもたらす可能性を秘めています。これはアーレントが最も重視した次元であり、特に公共の場における政治的対話がその核心にあります。

現代社会への批判

アーレントは、『人間の条件』を通じて、現代社会における労働の優位性を批判しています。産業革命以降、人間の活動は労働に集中するようになり、仕事や活動が軽視されるようになったと彼女は指摘します。この変化は、人間の自由や多様性を損ない、公共の場が衰退する原因となっていると論じています。

公共性と私的領域

アーレントは、古代ギリシャのポリスを例に挙げ、公共性の重要性を説いています。彼女によれば、公共の場は、個人が他者と意見を交換し、共通の世界を形成する場として不可欠です。しかし、現代では消費文化の台頭によって、この公共性が失われつつあると警鐘を鳴らしています。古代ギリシャは独特な固有名詞が多く、このあたりの議論は個人的にとても読みづらいです。山本理顕権力の空間/空間の権力では、わかりやすい図を挟みながらアーレントの議論を追ってくれるので、アーレントが何を言っているのか理解する上で大変役に立ちます。

 

すごく簡単に言うと、『人間の条件』は、現代社会における労働至上主義や効率主義に疑問を投げかけると同時に、人間がより自由で多様な生を追求する可能性を示唆しています。私はアーレントの研究者ではありませんが、彼女の鋭い批判と深い洞察は現代においても鮮烈で、読者に自らの生活や社会構造を見直す契機を与える良書だと言えるでしょう。

『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ

本書は前回紹介した『歴史の終わり』の続編として位置づけられる作品です。『歴史の終わり』で提唱された「自由民主主義と資本主義の普遍的勝利」という楽観的な見方を踏まえつつ、その後の世界で明らかになった課題や不安定さについて掘り下げています。

本書では、冷戦終結後の世界が必ずしもフクヤマの想定通りに進まなかった点を分析しています。具体的には、ナショナリズムの再興、宗教的対立の激化、ポピュリズムの台頭など、自由民主主義が直面する挑戦について論じています。また、グローバル化がもたらした経済的不平等や文化的摩擦が、自由主義の基盤を揺るがしていることにも注目しています。

フクヤマは、自由民主主義が「歴史の最終形態」としての地位を維持するためには、経済的な安定と社会的な包摂を両立させる必要があると主張します。一方で、自由主義に対する代替モデルとして、権威主義的な国家や宗教的原理主義が台頭する現象を、自由民主主義の普遍性への挑戦とみなしています。

また、彼は個人のアイデンティティの役割についても議論を深めています。現代における「認識の政治」(identity politics)の影響が、自由主義的な社会契約を分断する可能性を懸念し、個人の自由と共同体の調和を再構築する必要性を提案します。

『「歴史の終わり」の後で』は、単なる「歴史の終わり」の補足ではなく、21世紀における政治哲学の方向性を示す重要な洞察を提供しています。その中でフクヤマは、自身の理論を批判的に再評価しつつ、世界が抱える複雑な課題に対する現実的な視点を提示しています。この作品は、現代社会の行方を考える上で、自由民主主義の可能性と限界を再考するきっかけを与える一冊でしょう。

『歴史の終わり』フランシス・フクヤマ

フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man)は、1989年に発表された論文とそれに基づく1992年の書籍で、冷戦終結後の世界秩序を説明する試みとして広く議論を呼びました。フクヤマは、歴史とはイデオロギーや政治的システムの進化を含む人間社会の発展過程であるとし、冷戦の終了とともに自由民主主義が人類の政治的進化の最終形態に到達したと主張します。

彼の議論の核心は、自由民主主義が経済的な繁栄や個人の自由を最も効果的に保証するシステムであり、他のイデオロギー、特に共産主義ファシズムがその競争に敗れたという点です。フクヤマは、自由市場経済と政治的自由の結合が「普遍的な歴史の目的」として人類に受け入れられると考えました。この「歴史の終わり」という概念は、物理的な歴史の停止を意味するのではなく、政治的イデオロギーの進化が頂点に達し、それ以上の大きな変革は起こりにくいという意味で用いられています(よりアカデミックにヘーゲルコジェーヴを参照したいところですがそれはまた後日...)。

しかし、フクヤマは楽観論にとどまらず、自由民主主義が抱える課題や潜在的な脅威についても言及しています。たとえば、彼は「最後の人間」(the last man)という語を使って、人々が自由民主主義の安定した社会に生きることで、闘争や自己犠牲といった「歴史を作る」動機を失う可能性を示唆します。これにより、ニーチェが指摘した「無気力」や「ニヒリズム」が広がる危険性があると指摘しました。

また、フクヤマの理論は、その後の歴史的出来事により挑戦を受けました。たとえば、2001年の同時多発テロや、近年のポピュリズム権威主義の復活、グローバル化への反発などは、自由民主主義が普遍的な受容を得ることに疑問を投げかけています。こうした現象は、フクヤマの理論に対する批判や再評価を引き起こし、「歴史の終わり」が本当に到来したのか、あるいは新たな歴史の局面が始まっているのかという議論が続いています。個人的にはこの時期のフクヤマの議論をそのまま支持するのは難しいと言わざるを得ないと思います。彼は後に『「歴史の終わり」の後で』という本も書いているので、次回はそちらを紹介します。

『歴史の終わり』は、単なる政治理論を超え、哲学や社会学歴史学にまで影響を及ぼし、現代社会のあり方を考える上で重要な視点を提供しています。その内容は賛否両論を呼びながらも、冷戦以降の世界が当時どのように議論されていたのかを知る上で、とても読み応えのある一冊と言えるでしょう。

『戦争とデータ―死者はいかに数値となったか』五十嵐元道

本書は、戦争における死者数のデータがどのように収集・算出されてきたか、その歴史と方法論を概観することで、読者に「戦争」というイメージを読解する上で必要なリテラシーを提供してくれます。平易な文章で書かれているので入門書としても読めますが、繰り返し読んでも学びが尽きないほど示唆に満ちています。個人的には科学技術社会論と呼ばれる分野の特徴が盛り込まれている本でもあると感じたので、その分野の入門的な本としてもオススメです。

 

戦場での死者数は、戦争の規模や影響を測る重要な指標ですが、その正確な把握は容易ではありません。第二次世界大戦後、内戦やゲリラ戦が増加し、国家による統計が困難になる中、異なる組織や団体が独自の数字を発表することが多くなりました。その結果、国連などの国際機関が機能不全に陥る場面も見られました。

こうした状況下で、法医学や統計学の手法を取り入れた国際的な人道ネットワークが台頭し、死者数の正確な把握に努めてきました。本書では、これらの組織や専門家たちがどのようにデータを収集し、分析してきたのか、その苦闘の軌跡を描いています。

具体的には、ベトナム戦争、ビアフラ内戦、エルサルバドル内戦、第3次中東戦争、イラン・イラク戦争、旧ユーゴスラビア紛争、シリア内戦、そしてウクライナ戦争など、各紛争における死者数の算出方法や、その背景にある政治的・社会的要因を詳しく解説しています。

また、データ収集の過程で直面する倫理的課題や、データの信頼性を確保するための取り組みについても深く考察しています。これにより、戦争の実態を正確に把握することの重要性と、そのために必要な努力と挑戦が明らかにされています。

『戦争とデータ―死者はいかに数値となったか』は、戦争研究や人道問題に関心のある方々にとって、貴重な知見を提供する一冊です。戦争の現実を数値として捉えることの意義と限界を理解し、現代の紛争に対する新たな視点を得るための必読書と言えるでしょう。