本書は、噂という現象を哲学的に探求した一冊です。トピックは非常に興味深いのですが、参照されている具体例(ソクラテス、シェイクスピア、ルソーなど)や分析のフレームワーク(ロゴスとかエピステーメーとかハイデガーとか...)等が全体的に西洋中心主義的であると言わざるを得ません。また、議論そのものが抽象的であり、ところどころ興味深い指摘があるものの具体的に進まないため、かゆいところに手が届かないという印象です。以下にいくつかの論点を紹介します。
噂の特性とその力
噂は起源が不明であるにも関わらず、特定の説得力とスピードを伴って一般に流布してしまいます。ゆえに、悪い噂の対象となった人はその真偽に関わらず始めから防衛を迫られる立場であり、噂がでっち上げだったとしても、それが嘘だという証拠を求められます。噂自体は根拠なく広がるにも関わらず、それを退けるためには根拠が必要になってしまうのです。このアンバランスな関係は非常に強力で、ソクラテスが死刑判決を受け、ルソーがフランスを追放された背景にも噂が大きく関わっています。このような例から、著者は「噂はときとして神聖に近い影響力を持つ」と論じています。
社会的繋がりとしての噂
しかし噂は単なるネガティブな現象ではなく、社会的絆を形成する役割も果たすと著者は指摘します。興味深いのは、噂がマイノリティにとって民主主義的な手段であった可能性です。著者はこの点についていくつかの参考文献を挙げるに留まっていますが、例えば植民地の拡大において現地語による噂(非公式な情報の流通)は支配者に悟られずに情報を共有する手段だったようです。ここはとても重要な部分に思われるのでぜひ掘り下げてほしかったのですが、本書は短いこともあり、著者は文献ベースの理論的な思索にほとんどのページを割いています。
啓蒙主義と噂の拡大
もうひとつ興味深い指摘は、噂が啓蒙主義の裏側の効果だったということです。啓蒙主義の進出により識字率が向上すると同時に、印刷技術の進歩によって情報の流通が加速しました。その結果、噂もまた広範囲に拡散されるようになったと著者は述べています。事実、1820年代のパリでは、既にフェイクニュースが社会問題として認識されていたようです。
現代においては、インターネットとSNSの登場により、噂の影響力はさらに拡大しました。情報が即座に共有可能になったことで、知識の民主化が進む一方、噂やフェイクニュースが社会的な混乱を引き起こす媒体ともなっています。著者の議論は抽象的なのでここでは丁寧に繰り返しませんが、簡単に言うと噂的なものとは理論的思考とか啓蒙主義的理性の裏側に常に存在してしまうもののようです。
本書は「噂」について考える上で比較的読みやすい入門書と言ってもいいかもしれません。英語ですがページ数が少なく(キンドルで読んでいるので具体的なページ数はわかりませんが...)、平易な文章で書かれているため、英語中級者であれば読めるのではないかと思います。冒頭で述べたように西洋中心主義的な内容であるため、本格的にこの議論に取り組むためにはもっと脱西洋的な視点が必要だとも思いますが、ところどころとてもおもしろい指摘があるので一読の価値あり、という感じです。下記サイトで一部分が読めるので、興味のある方はぜひ。